オーキド博士からカロス地方のプラターヌ博士へのお使いを言い渡されたのは、博士の孫にして研究者界隈のなかでも優秀だと有名なオーキド・シゲルではなく、何故かあたしだった。それは偏に、現在カロス地方でポケモンマスターへの旅修行に勤しんでいる彼のポケモントレーナーへあたしが抱いている想いが知れ渡っているからなのであろう。「人知れずこそ思ひそめしか」とは誰が言ったか。
「まったくもって余計なお世話だ!」
『まあそう言うなって』
「大元の原因、オーキド博士はもちろんだけどプラターヌ博士も余計な気ぃ回しやがって!」
『おい、口が悪いぞ』
大体、世界狭しと言えど、同じ地方に来たからと言ってそう簡単に会えるわけでもない。だから、プラターヌ博士に博士からのお使い―進化に関するオーキド博士の研究レポートなのだが―を渡したらさっさとカント―に帰ってこようと思っていたのだ。彼に会う気なんてさらさらなかった。なのにプラターヌ博士ときたら「ポケモン図鑑に関するちょっとした不具合及びアップグレードがあってね。こいつに入っているデータを彼の図鑑にダウンロードしてやって欲しいんだ」
「そんなの、パソコン通信でできるじゃん!てか他のトレーナーにはそれでやってんじゃん!」
『そうなんだがな、』
「大体オーキド博士もオーキド博士だよ。レポートなんていっつも郵送で送って………あれ…もしかして、これってグル?」
『今頃気づいたのかい』
呆れた様な声が、右手に握りしめたポケナビから聞こえる。ホログラムメールやらなんやらが今いるカロスでは主流らしいが、こいつは昔あたしがホウエンを旅していたときからの相棒だ。たたたん、たたたん、と電車の揺れを伝える椅子に脱力した背を預け「もうやだ……」小さく零した。ポケナビからはあたしの呟きを拾ったシゲルの声がまだ続いている。
『今日が何月何日か君、わかるかい』
「馬鹿にすんな。10月10日でしょ」
『なら、おじいちゃんたちが君をそっちに寄越した理由もわかるだろ』
『君はわかりやすい』シゲルの声は続く。
『君が毎年あいつへのプレゼントを買っているのは知ってるんだ。今年は無駄にするなよ』
「……本当、余計なお世話、だ」
『………久しぶりに会えるんだから、少しぐらいゆっくりして元気もらってこい』
「っ、あたしは別に会いたくなんてなかった!!!」
思わずポケナビに叫びを叩き付ける。しかしその声を聞く前に向こうは通話を切ってしまったらしく、あたしの叫びは誰もいない閑散とした車内に広がるだけだった。
今日の日付、彼の誕生日ももちろん理由の一つだろう。しかし、きっとそれ以上に最後のシゲルの台詞が、今回あたしがカロスに寄越された大きな理由だ。
いくつかの旅を経て現在進んでいる研究職の道で、あたしはあまりうまくいっていなかった。大きな理想を持って入った世界が、実は思っていたように立派でも崇高なものでもなかったこと。素晴らしい人ばかりではない。恨みや妬みも多いこの世界。きっと上の方の人、それこそオーキド博士やプラターヌ博士のようなクラスになれば、違うのだろう。しかし、まだぺーぺーの新人だ。下っ端だ。シゲルのように優秀であれば、やれ学会だ、やれ博士の助手だ、などと、それこそあたしが思い描いていたような研究者らしい仕事が与えられる。しかし如何せん、自分で思っていた以上にあたしはトロかった。仕事ができなかった。呑み込みが遅い。一つ何かできるようになったと思えば、また違う壁にぶち当たる。同期の子たちがポニータの様に軽やかに駆けていくのを、あたしはスタート地点近くでヤドンのようにのろのろと眺めているばかりだ。何が悪いのかわからない。頑張っても一向に成果は出ない。そうしてついに先日、大きなミスをやらかしてしまった。常日頃やらかしている小さなミスも含めて盛大に先輩からお叱りを受けたあたしの精神状態はどろどろのぐちゃぐちゃで、もう見ていられるものじゃなかったらしい。まあ、全部あたしが悪いんだけどね。それを、同じマサラに住んでいるから知り得たのだろう。それかシゲルが実際にその現場を見ていたのか。今回のお達しである。
失敗を重ねる度、自分を守るように「どうせあたしなんか」「あたしだから」そんな言葉を胸の内で吐いていた。そうして諦め癖がついていくにしたがって、どんどん彼が遠くなっていくように感じる。彼といたときには考えられなかったような姿だ。こんな自分で彼に会いたくなかった。相も変わらず夢に真っ直ぐな眩しい彼の姿を、今は見たくなかった。なのに君は昔と変わらない太陽みたいな笑みをあたしに向けてくるものから、あたしは手のひらに爪を食い込ませ、全力で涙を堪え無理やり笑みを浮かべる。
「久し振り!!うわあ、元気だったか?」
「うん、久し振り。サトシは……聞くまでもなく元気そうだね。ピカチュウも」
ポケモンセンターのロビー。プラターヌ博士に言われてあたしを待っていたのだろう。嬉しそうに弾んだ声をあげるサトシの肩に乗っているピカチュウを軽く撫で、彼の後ろに目をやる。こちらを興味津津といった瞳で見つめる、女の子二人に男の子一人。
「紹介するよ。こいつらが今一緒に旅してる仲間たち」
「私、セレナっていいます」
「シトロンです」
「ユリーカよ!こっちはデデンネ」
知っている。よく、知っている。机の中、見たくないものを隠すように、けれど捨てられなかった写真を思い出す。
「はじめまして。君たちのことはサトシからよく聞いてるよ。前、写真を送ってもらったんだ」
それから二言三言交わして図鑑のアップグレードに移るつもりが、あれよこれよという間にロビーのソファに連行され、セレナちゃんがつくったというマカロンをお供にお茶をすることとなった。話題の中心は、主に今と昔のサトシにまつわるエピソードである。
写真で見た時から感じの良さそうな人たちだと思っていたけれど、実際に話してみると思っていた以上に良い人たちだった。話していて気持ちが良い。会話が弾む。楽しい。お茶会をはじめてからの1、2時間はあっという間で、なのにふとした瞬間に彼らとの隔たりを感じてしまう。何の曇りもなく真っ直ぐに瞳を前に向けている彼らのなんて純粋なことか。眩しいことか。昔はあたしだって同じような目をしていたはずなのに。気付いてしまってからはもうだめだった。ちょうど話が一区切りしたところを見計らって、わざとらしくポケナビの時計をのぞき込む。
「それじゃあ、時間もあまりないことだし、そろそろサトシとセレナちゃんの図鑑をアップデートさせてもらうね」
小さな嘘を吐いたことに、胸がちくりと痛んだ。
プラターヌ博士に渡されたデータの入ったチップを図鑑に差し込み、アップグレードをしていく。せっかくだからと気をつかってくれたのか傍らにはサトシしかない。どうしてみんなしてこう、と飛び出しそうになった舌打ちを押し込め、黙々と作業をする。先ほどのはしゃぎようが嘘のように、あたしたちの間は静かだった。
「シゲルも元気でやってるか?」
「元気だし、相変わらず女の子にもモテモテだよーシゲルは。……シゲルはさ、すごいよ。いろんなお偉方に実力認められて、やれ学会だ、やれ研究だ、の毎日だよ」
本当すごいよ、あいつはね。胸の中でもう一度呟く。へええ、とキラキラした顔で相槌を打つサトシに、もう眩しくて目が潰れそうだ。こっちはシゲルへの嫉妬と羨望、そしてできない自分への自己嫌悪で毎日汚い感情が胸を渦巻いているというのに。そっと目を伏せる。図鑑の方で操作する作業は終わった。あとはデータのダウンロードが完了するのを待つだけだ。
「サトシは、」目を伏せたまま言葉を紡ぐ。ダウンロードが完了するまでの数分を埋める為だけの、彼の近況でも聞くつもりだった。
「サトシは、……寂しくない?辛くない?やるせなくなったり、してない?」
するつもりのなかった質問に、ふるりと睫毛が揺れた。
「寂しくないよ、仲間がいるから。辛くなっても、みんながいるから大丈夫だ。やるせないってのは……どんな感情かわかんないんだけどさ」
そう言ってからりと笑うサトシに、目頭が熱くなった。本当は一番聞きたかったことだった。遠く離れた彼を想う度に、寂しさに凍えていないか、辛くて震えていないか、やるせなさに蹲っていないか。あたしが壁にぶち当たってどうしようもなくなる度に、こんな思い彼にはして欲しくないと願った。あたしの言葉を一蹴するようなサトシの笑顔によかったと安心すると同時に、ほんの少しの寂しさが滲む。そうだ。彼は大丈夫なのだ。あの、気持ちの良い仲間たちがいるから。そこにあたしがいなくたって。
「オレもさ、一つ聞きたいことがあったんだけど、」
あたしの研究職での近況についてか。そう思い身構えていると、思わぬところからカウンターがきた。
「なんで研究者になったんだ?」
ひう、と喉の奥が鳴る。まさか、だって今までそんなこと聞いてこなかったのに。俯いた顔を上げることができない。
あたしが研究者を目指した理由。それは、とてつもなく下心じみたものだった。つまるところはそう、どうしようもなくあたしはサトシが好きだったのだ。本当に本当にサトシが好きで、もうどうしようもなくて、だから研究者に。そうしたら、サトシがポケモントレーナーであり続ける限りは、ポケモンに関わり続けようとする限りは、彼を支える一部になることができる。サトシと実際に会えなくたって、繋がっていられる。だからあたしはポケモントレーナーと一番密接であるポケモン研究者になろうと思った。そうまでしてサトシと関わっていたかった。そんなこと言えるはずがないじゃないか。
写真の中、サトシの隣にいた彼女を、先程実際に言葉を交わしたセレナちゃんを思い出す。あたしも同じものを持っているからすぐに気づいた。彼女がサトシに向ける瞳の中にある、仄かな熱を。あたしと違って可愛い彼女。もらったマカロン、とても美味しかった。お茶会の後、去り際に「今夜サトシのバースデーパーティーをサプライズでやるんだけど……あなたもどうかな」はにかみながら耳元で囁かれた。おしゃれで、可愛くて、女の子らしくて、料理上手で、本当に良い子。あんな子が恋人になったら、きっとすごく幸せだろう。
大声を上げて泣き叫びたくなった。
「……ポケモンが、好きだからだよ」
やっとのことでそう絞り出す。震えずに出せた自分の声に、心底安堵した。
図鑑の画面にダウンロード完了との文字を確認し、チップを外す。それを大切にしまい、二つの図鑑をサトシに押し付けた。
「はいよ、アップデート終了。これ、セレナちゃんに渡しておいてね」
「サンキュ。他のみんなに挨拶していけばいいのに」
それに曖昧に笑って返す。先程セレナちゃんに誘われたバースデーパーティーは、丁重にお断りした。でも、誘ってくれたことは本当に本当に嬉しかったのだ。サトシのことさえなければ、あたしは彼女のことが心底好きになっていただろう。だから恋心って怖い。
彼女の誘いを断った以上、これ以上ここにいる理由もない。誰かさんはゆっくりして来いだなんて言っていたけれど。最後に、と前置きをして鞄の中から小さな箱を一つ取り出す。
「誕生日おめでとう、サトシ」
「お、サンキュー!!……って、これチョコレートじゃん、しかも値札貼ったままだ…うわ、98円って書いてある……」
「祝ってもらった身で文句言うなよ」
「そうだけどさあ」
オレたちの友情ってこんなもんかよ。口を尖らせながらも大切に懐に税込98円のチョコをしまうサトシに、笑みが漏れた。じゃあね、そう言って背を向けようとする前に、サトシが口を開く。
「なあ、ポケモンが好きって言ってたけど、オレもポケモンが好きだよ」
「……知ってるけど」
「だからさ、オレたちを繋いでるのって、ポケモンなんだな」
こればかりはもう、どうしようもなかった。堪え切れなかった涙が一筋、流れる。
慌てふためくサトシを目の前に、一滴、二滴、と最初の一筋の後を追うように頬の線は増えていく。
本当に辛かった。あまりにも仕事ができなくて、叱られてばかりで。他の道を進んでいればきっとずっと楽だったのに。今の道へと進んだ理由であるサトシへの想いを恨んだりもした。彼を好きになんてならなければ良かった、と。はじめからやり直したい。それこそ生まれる前、一番はじめから。そうしたらもう、サトシなんて好きにならない。
そうまでも思ったりしたのに。でも、もう駄目だ。どんなに後悔しても、どんなに辛くても、やっぱりあたしはサトシが好きだ。きっと何度やり直したって好きになってしまう。
「ポケモンが好きなサトシが大好きだ。サトシと出会えたことが、あたしの人生の中で一番の誇りだよ」
繋がった。繋がっていた。ほんの少しでも、ただのあたしの自己満足だけじゃなかった。
きっとこれからも辛いことばかりだ。死ぬほど落ち込む毎日だ。でも、研究者になってよかった。
「生まれてきてくれてありがとう、サトシ」
『本当にそれでよかったのか?』
「……いいんだよ」
かたたん、かたたん、揺れる列車に身を任せ、手の平の上にある小さな箱を見つめる。カント―から持ってきたその箱の中には、彼のことを考えながら1か月かけて選び抜いたグローブと手編みのミサンガが入っている。彼に渡すには、込められた想いが重すぎた。渡すのは、98円のチョコレートで十分だ。
「シゲル、帰ったら色々教えて」
『色々って、何がだ?』
「あたしの何が悪いのか、何が足らないのか、から全部」
『それは骨が折れそうだな。………実を言うと、僕は君がもうこのままやめてしまうんじゃないかと思っていたよ』
ポケナビから届く声に苦笑する。そりゃやめてしまいたいと思った。何もかも投げ出したいと。でも、ここでこれを諦めてしまったら、あたしは死んでしまう。命ではなく、あたしの中の何かが。そうしたらきっともうサトシに会うことができなくなる。これからもあたしはどうにかやっていけるのだろうか。どうにかこうにかもがきながらやっていって、今よりも少しでもましになったら、その時にはあたしはこの想いを捨てることができるのかな。
『なんだかんだ言っていたけれど、少しはサトシに会ったかいがあったんじゃないか』
「そうだね………でも、やっぱりもう暫くは会いたくないかな」
サトシの隣、あの可愛い女の子のことを思い出す。ポケナビの電源を切ってかたかた軋む窓を開け放つ。爽やかな風が行きと同じ様にあたし以外誰もいない車内に吹きわたった。開いた窓から見えるのは高く澄んだ青い空に、空の光を受けて輝く広い海。躊躇いもなく、そこへ向けて窓から手の平の想いの塊を投げ捨てる。とてつもなく重たく感じたその箱は、ぱしゃりと小さな音と共に、大した水柱も立てずに海に吸い込まれていった。